Special omnibus

わたしと東急バス

あの日、あの時、この場所を・・・東急バスが走っていました。
今とは違う景色。でも面影を残す街。
記憶に蘇るシルバー&レッドの車両。
今バスの仕事に携わる社員たちがかつて乗客だった頃の
東急バスの姿と、当時の情景を追想してもらいました。
6つのオムニバスからなる、それぞれのOne Story。

当社社員が過去に東急バスを利用した際の心に残った出来事を2023年現在から振り返る回想録です。当時の記憶に依拠して執筆しており、一部記載が正確でない場合があります。

反町公園

今年、母方の祖母が他界した。ここに綴る思い出は二十数年前、私が小学4~5年生の時、3つ年下の弟と毎週末、祖母の家へ泊まりがけで遊びに行っていた頃の記憶である。今はもう当社のバスが走っていない小机駅前-横浜駅西口間の路線バスに乗って。

土曜日は心が弾んだ。当時私の家は横浜市港北区の岸根町にあったが、土曜の朝はいつも岸根バス停で小机方面から来る東急バスを待った。横浜市営バスと共同運行していた区間だったが東急バスの本数は少なかったと思う。路線撤退を見越した減便だったのか、道路事情か、あるいはその頃はまだ行われることのあったストライキが影響していたのか分からない。横浜市営バスの方が便は多かったが、父親が東急バスの運転士である我が家にとって、バスと電車は東急優先。私は母から「銀と赤のバスに乗るのよ」と教えられていた。一本逃すとなかなか来ない。乗り遅れたくないと気がはやったのを覚えている。

新幹線の高架下を通る県道12号横浜上麻生線。東急バスは2007年に路線撤退している。

バス停で母に見送られ弟と二人、横浜駅西口行きのバスに乗り込む。一路向かうのは祖母が待っている国道1号線沿いの二ツ谷町バス停。およそ30分の車中、県道12号横浜上麻生線を行くバスの車窓から木々に覆われた岸根公園の緑鮮やかな景色や、活気のある六角橋商店街が眺められた。前方に見えてくる東神奈川駅を右折すると目的地は近い。〈週末が来た。おばあちゃんに会える。いっぱい遊べる〉。ワクワク気分が高まっていく。

二ツ谷町バス停で降車すると祖母がいつも笑顔で私たちを出迎えてくれた。「おばあちゃん、また来たよ!」「うん、よく来たねえ」。

バスが途中に通りかかる岸根公園の緑豊かな景観。横浜市内有数の桜の名所である。

祖母の家は国道を挟んだ向こう側に見える反町公園を横切ったところにある。週末の反町公園は地域の催し物が行われ賑やかだった。外での遊び場は決まって反町公園。集まってくる子どもも多く、現地で毎週遊ぶ友だちもできた。祖母の家に置いていた一輪車をひと夏、公園で猛特訓して乗れるようになったのも思い出だ。家では振る舞ってくれるご馳走を食べ、祖母とたくさんお喋りをし、夜眠りにつくまで遊んだ。楽しすぎて日曜の夜も泊まる「連泊朝帰り」も度々あった。そんな時は翌日の学校に遅れないよう早朝のバスで帰るのだが弟は車中ですぐ眠る。私も眠たかったけれど乗り過ごせば学校に遅れてしまう。岸根バス停に近づくと弟の背中を叩き、手を引いて降りた。私も幼かったが弟の同伴で責任感が芽生えた気がしている。私たち二人はすぐさまお泊まり用のバッグをランドセルに持ち替えてそのまま学校へ登校。そんな週末が2年近く続いた。

ところでなぜ毎週祖母の家に?後に母親から聞いた話だが、看護師をしていた祖母は定年まで忙しく働いていたので私たち孫と接する機会が少なかったのを心残りに思っていたらしい。定年を迎え「二人とも手がかからない歳になったんだし、子どもたちだけで泊まりに来させてよ」と母に懇願したそうだ。私と弟が土曜日に通っていた英会話スクールは横浜駅が最寄りで祖母の家からバスも電車もアクセスが良い。母にすれば少し遠くの習い事へ行かせる一時休憩所として安心であるし、祖母の願いにも応えられる。少しの親孝行だったのかもしれない。いや、でも今顧みれば小学生の連泊朝帰りからの登校は流石に行き過ぎではなかったか・・・。

こうして追懐すると改めて祖母と私と弟の時間、反町公園での思い出、バスの中の記憶が蘇ってくる。先日久しぶりに二ツ谷町バス停付近を歩いてみた。周囲の風景はさほど変わっておらず懐かしかった。だが残念ながらあの頃のように道路を走って行く東急バスの姿は見られない。小机駅前-横浜駅西口間だけでなく現在当社の路線バスで横浜駅西口が起点、終点となる系統はない。復活してほしい思いはあるけれど。

私は当社の計画部に所属し高速バスや観光バスの企画・運営に携わっている。昨年、新企画で横浜駅西口から出発する草津温泉行きの高速乗合バスの開業を担当し、オープンに立ち会った。祖母の家から毎週通った横浜駅西口に戻れたような感覚があって嬉しい。天国で祖母も喜んでくれていると思う。「おばあちゃん、また帰ってきたよ」。

大崎郵便局 停留所

誰しも生まれ育った故郷の地には特別な想いがあるだろう。その地が東京の都心部でも同じだ。私の生まれ故郷は品川区の五反田である。大学3年の冬、両親が一戸建てのマイホームを求めて川崎市へ引っ越したときに私も伴うことになったが、5年以上経った今も正直、愛着は五反田の方にある。付き合いが長く、気のおけない地元の仲間が多くいることもあるが、自分は発展していく都会の街と生活自体が好きだったのだと思う。

私は1996年生まれで幼少から大人になるまでの間は、近くの品川や大崎地区の大規模開発が進んでいく最中だった。次々に高層ビルが建ち、新しく綺麗な施設や公園ができて街の光景が変わる様子を見て過ごした。周辺の道路整備も眼を見張った。大掛かりな道路工事がいつも行われていた記憶がある。首都高中央環状品川線の山手トンネルは、我が家が五反田を後にする少し前に大橋JCTー大井JCT間が結ばれて開通した。山手トンネルへの五反田入り口は大崎郵便局前の交差点から山手通りを渋谷方面に向かう途中にあるが、当時の自宅マンションから程近い場所だ。日本で一番長い道路トンネルをつくる最先端工事が生活圏のすぐそばで行われていたのだ。五反田は品川や大崎に比べると街の開発自体はまだこれからかもしれないが、電車は山手線、道路は山手通りに面して都心ならどこへ行くにもスムーズで快適に移動できる。おかげで楽しい少年時代、青春時代を過ごせたと思っている。今もたまに小・中学校時代の仲間たちへ会いに五反田へ行くが、ますます進化している街を見ると、懐かしさとともに羨ましい気持ちになる。

そして、私にとって山手通りといえば、東急バス渋41系統である。大崎郵便局のバス停から事あるごとに利用していた。渋谷駅を起点とする渋41系統は山手通りを走って、私がよく乗降していた大崎郵便局の停留所を通り、大崎駅、新馬場駅を経由して終点の大井町駅に着く。現在も当社で最も輸送人員の多い路線だが、自分が乗っていた頃も運行本数が多くバスは使い勝手が良いと感じていた。色々な鉄道の駅で停車してくれるし、山手通り沿いや大井町方面の行き先に用事があるときは特に重宝した。少年野球をやっていた頃、試合を行う球場が新馬場駅から山手通り沿いに少し歩いた通称「恐竜公園」(恐竜のオブジェが多数設置されていたのでみんなこう呼んでいたが正式名は品川区「子供の森公園」)の中にあり、試合の行き帰りはバスを使っていた。自宅から五反田駅も歩けるので、バスは普段使いではなかったのだが、それが逆にバスに乗るといつもとちょっと違う感覚が刺激され高揚感があった気がする。渋41系統のバスにまつわる思い出を最後に一つ。非日常の感覚を初めて味わった時の体験だ。

山手通りを走る渋41系統(渋谷駅ー大井町駅)。馴染みのバスで車内からの眺めはよく覚えている。

小学2年生だったと思う。夜中に前触れなく急に耳がものすごく痛み出した。あまりの痛さに一晩中眠れず泣きじゃくった。突然のことだったので母親も相当慌てていた。翌朝近くの耳鼻科へ連れて行かれて診察を受けると、やや重い症状の中耳炎の疑い。突発性で原因がはっきりしないため精密検査を勧められ、中目黒の近くにある東京共済病院の紹介状を出してもらった。そこから約半年間、私は治療で週一回、平日に母とともに病院へ通う。大崎郵便局のバス停から山手通りを行く、渋41系統に乗って。

耳の痛みがつらく感じたのは初めのうちだけだった。どんな治療だったかよく覚えていないが抗生剤を使うと存外早く症状が改善した。痛みは薄れ、耳の聴こえも元に戻った。ただ急性中耳炎は痛みが解消しても子どもは発症を繰り返して長引くことがあるため、通院治療を続けたのだった。学校を半日休み、バスで出かける日がまんざら悪くないなと次第に思い始めた。ラッシュを過ぎた朝9時頃の、割に空いているバスに乗る。車窓から中目黒方面に向かう山手通り沿いの景色を眺めていると、非日常の感覚がじわじわと湧いてきた。〈これはいいぞ。特別な時間だ。今ごろみんな授業受けているな、フフフ〉。なぜだかわからないが、20年経った今もこの時のことを時折思い出す。渋41系統からの山手通りの景色を心ひそかに楽しんでいたあの時の私は、この路線バスを走らせる会社で運転士になるとは思っていなかった。

東京共済病院前のバス停付近。小学2年で中耳炎の治療中はこの停留所で降りて病院へ通っていた。
青葉台東急スクエア

青葉台には特別な思いがある。幼少から学生、社会人と、この街が変わっていく姿を見てきた。バスが都市の形成と発展に欠かせないことを見て学び、感化された街でもある。

生まれてこの方、東急田園都市線沿線から離れず暮らしてきた私は、東急線沿線の様々な街、バス、電車とごく自然に、そして密接に関わって過ごしてきた。学校、仲間、仕事、家族の思い出ができた愛着のある街や路線は数多くあるが、とりわけ青葉台の今日の発展に至る変遷には言い得ない感情がある。目覚ましい進化を遂げた現在の姿だけでなく、私自身の当時の生活、人生の選択、キャリア、これまでの歩みと重なるからだ。

言うまでもなく青葉台駅周辺の街は、1980年代以降今なお続く田園都市線沿線の大規模都市整備を象徴するエリアだ。区画整理、宅地開発、市街化を経て人口増加と定着が進み、現在青葉台駅は他路線と接続しない東急線単独駅では最大の乗降客数である。バスターミナルは当社を含む3事業者が乗り入れ、周辺地域への運行拠点となっている。私自身も近距離移動に青葉台駅発着のバスを頻繁に利用してきた。エリアを隈なく走るバスの輸送力も手伝い、これだけ多くの人が集まる場所に成長したことは感慨深い。ここから私の記憶を綴っていく。

青葉台駅前の現在のバスターミナル。周辺エリアの運行拠点で当社を含む3事業所が乗り入れている。

青葉台のランドマークである青葉台東急スクエア本館。40数年前、あの辺り一帯は何もない空き地だったはずだ。幼い頃、親に連れられて青葉台商店会に買い物に来たが、個人で営む店がまばらにある程度で、人通りもさほど多くない閑散とした場所だった。いま青葉台東急スクエア本館が建つ場所で、町内の夏祭りや盆踊りが開かれていたと思う。周辺もまだ宅地化されていない丘陵地。思い返せば少年時代に見た光景は多摩田園都市の夜明け前だったのだろう。ただ、私の家の最寄り駅、長津田は、青葉台とは異なる昔ながらの街なので、ここへ来るのは楽しみだった。中学生の頃には次第に駅周辺の商業施設や店舗が増え、日常的に足を運ぶようになっていった。

街が出来上がっていく過程において1990年代前半、商業施設と文化施設が共存する東急青葉台ビル(のちの青葉台東急スクエア)の建設時が長足の進歩だったのではないだろうか。同時期に駅の改築工事があり、駅ビルと東急青葉台ビルがペデストリアンデッキで連結した。バスターミナルの改良工事も行われ、駅施設、駅前広場、駅ビルが順々に完成。最後に青葉台東急百貨店、コンサートホール(フィリアホール)、区民文化センターの3施設が入った東急青葉台ビルが誕生した。この時、今の青葉台の下地ができたと思う。駅周辺の開発も進み、景色がどんどん変わっていくのを常々感じていた時期である。

1993年に建設された東急青葉台ビル。青葉台東急百貨店、フィリアホールが開業した。
(出典:東急100年の歩み)

高校時代は学校帰り仲間たちと青葉台へ寄り、ファストフード店で長時間、過ごしていた覚えがある。ボーリング場やCDショップにもよく出入りした。青葉台商店会の飲食店が急激に増え、活況だった印象も残っている。高校生の自分にとって青葉台駅周辺はワクワク感のある遊び場だった。また、ここを電車の移動拠点に30分ほどで行ける渋谷方面にも足を延ばすようになっていった。

青葉台へ行く際は電車よりもバスをよく利用した。自宅から歩いて10分の青葉台営業所前の停留所は本数が多く使いやすい。また青葉台駅発着のバス路線は当時から発達していた。青葉台周辺の人口増加と宅地化が好調に進んだのは、「横浜都民」と呼ばれるほど都心への通勤・通学アクセスが良いことが機軸にあるが、見逃せないのは多摩田園都市の各エリアを効率よく運行するバスの存在だと思っている。住民生活にとって利便性の高い交通基盤がこの時すでに確立していた。近隣には高校や大学がいくつもあり、青葉台駅や市が尾駅からバス通学する運行系統が整備されていた。朝の通学時間帯、私も両駅を使う機会が多かったが、バス停に長蛇の列をなす生徒たちをひっきりなしに乗車させ、走っていく東急バスの姿を見ていた。

自宅から青葉台へ行くときは青葉台営業所前のバス停から乗車していた。道路の左側は営業所車庫。
東急田園都市線市が尾駅前のバス停。通学時間帯は生徒たちの長い列ができる。

大学生の時に所沢から遊びに来た友人が青葉台駅を見て私にこう言った。「お前の地元、すごい都会だな」。1990年代中頃の青葉台は、すでに田園都市線沿線を代表する街に発展していた。大学時代、当社を志望した理由の根底には「街と人」への思いがある。自分の生活圏の目を見張る変貌に触発されたこと、父親が東急系の会社に勤めていた影響もあるが、沿線の街づくりへの関心が深まっていた。バスは地域住民とそこで働く人、学ぶ人の生活を支え、間接的に街の発展に資することを体感してきた。バス会社で働く第一義を、そこに求めていたと思う。

2000年代に入ると駅周辺の商業施設全体を青葉台東急スクエアとしてリニューアルする計画が進んだ。青葉台にふさわしい姿形、施設のあり方を探求した帰結のように思える。駅を取り巻く青葉台東急スクエアには個性あふれるテナントが誘致され、複数棟で構成される大規模な専門店型ショッピングセンターに生まれ変わった。店舗数だけでなく質の高い生活を提案する店が集積。イベントホールやカルチャーセンターも包括し、豊かな生活の選択肢を用意する街になったと思う。一方でバスに少し乗ると綺麗な街並みの住宅地が広がり、のどかな田園風景も残存していた。

青30系統。青葉台駅から10分ほど走ると田園風景が広がる。現在も初夏になると野生の蛍が見られる。

私は2006年に青葉台営業所に着任した。懐かしさとともに地域への愛着がいっそう強くなった。それからさらに十数年が経った現在、青葉台そして多摩田園都市エリアは刻々と進化を続けている。今も田園都市線沿線に住まいがあり、休日には家族とバスや電車に乗って沿線の街へ出かける。時折「あれ?ここ(の場所は前)、なんだっけ?」という瞬間がいまだによくある。以前の景色が変わるのを少し寂しく感じることもあるが、私は求められる姿へ育っていくのが街だと思っている。過去と現在を受け継いでより良い未来の街へつなげていく。バス会社の仕事がその一助となれたら嬉しい。車窓の風景を子どもたちと眺めながらそう願うのだ。

勝田団地 停留所

私の地元の町、横浜市都筑区の勝田(かちだ)地区は、港北ニュータウンの東側に位置する住宅地だ。大規模な都市整備地区の一角で、大通り沿いは邸宅やマンションが整然と建ち並び、景観に配慮された広い公園と歩道が整えられている。通りかかる人には新しい街並みに見えるかもしれない。側道から町の中程に入ると古くからある公営住宅が現在も数多く残っている。北端を流れる早渕川の河畔一帯は深い緑に囲まれていて丘陵地の自然林をそのまま生かした公園が点在している。勝田は私が生まれるずっと昔からの姿をとどめる町。そんな生活環境で育った。

港北ニュータウンは東急田園都市線と東急東横線の間に挟まれ、横浜市営地下鉄ブルーライン、グリーンラインが交差する鉄道交通の利便性が高いエリアだが、勝田はその中心部から少し離れた位置にある。センター北、センター南、仲町台、いずれの地下鉄の駅も徒歩ではやや遠く、都心に向かう東急線の電車に乗るにはバスの方が便利だ。そのため住民にとってバスが移動に欠かせない足となっている。自宅から歩いて5分のところに「勝田団地」という停留所があり、私もよく利用してきた。東急バスはごく身近な乗り物であったし、少年時代によく見たバスの運転士さんに親しみと憧れがあった。バス停の周りは団地以外にこれといって目立つものはないのだが、街路樹のイチョウ並木が秋になると黄金色に染まって、とても美しい光景になる。バスはこの道を走っていく。

綱71系統が通る勝田団地交差点。辺りのイチョウ並木の葉が色づく秋は美しい。綱島駅まで約20分。

勝田団地から乗車する東急バスの行き先は、東横線の綱島駅である。今も運行する勝田折返所と綱島駅を結ぶ綱71系統。県道13号横浜生田線から新羽287号線を走り早渕川を渡って綱島駅に到着する20分余りの道のりだ。子どもの頃、私は空いていれば見晴らしの良い最前列の左側特等席に座を取り、前方の景色を楽しんだ。片や横に見える運転士さんの乗務中の姿を観察していた覚えもある。バスが好きになり、運転士の仕事に憧れを持つようになったのもその頃だったと思う。

少年時代、バスに乗って出かけた記憶は祖父母との思い出とオーバーラップする。今から20年近く前、10歳くらいの頃だ。一つ上の姉と二人、祖父に勉強や習字を教わりに東横線の学芸大学駅近くにある家までよく訪ねて行った。母親の実家なのだが、母が同伴した記憶はあまりなく、いつも年子の姉弟(私)だけ。日帰りが多かったけれど、10歳の自分にはバスと電車を乗り継いで東京へ行くこと自体ちょっとした冒険気分だった。都内の私立小に通っていた姉はバスと電車の乗り換えに慣れていたので、私は姉の先導を頼りにして後ろからついて行った。

綱71系統に乗車し、綱島駅のバスターミナルで降りると北口改札から東横線のホームに入り、渋谷方面の電車に乗って学芸大学駅で下車する。勝田団地から延べで1時間足らずの移動だが姉と違って普段頻繁にバスと電車に乗ることがなく、多摩川を越えて都内へ入る機会も稀だった私は見慣れない駅や街の景色に興味津々。心を踊らせて道中を楽しんでいたと思う。学芸大学駅の改札を出た時の「着いたぞ~」という爽快感もあった。

綱71系統のバスを終点の綱島駅で降り、そのまま駅の北口から東急東横線の電車に乗り換えていた。

塾を開いていた祖父は姉と私に学校の宿題を教えてくれ、習字の課題があるときは書の手ほどきしてくれた。何度となく助けてもらった重恩がある。一方で今思い返せば勉強を見てあげることで孫二人が勝田からバスと電車に揺られてやって来るのを、祖父母も待ち望んでいたのではないかと思ったりもする。往訪の目的は専ら学習指導を請うことだったが、私たち姉弟は帰るまで楽しい時間を過ごした。真夏に屋根の上に登って遊び、祖母を心配させたり、碑文谷八幡宮の祭りに出かけ、境内の縁日で祖父に駄菓子を買ってもらった懐かしい思い出もある。しかし、今はもうあの家に祖父母はいない。

祖母が去年逝き、今年になって祖父も亡くなった。姉と私を迎え入れてくれたやさしい笑顔を再び見られないと思うと寂しい。あの頃、祖父母の家へ向かう綱71系統の車内で運転士に憧れを抱いた私は、今こうして当社の乗務員となりバスを走らせている。頼りになる祖父、やさしい祖母。二人で天国から私の毎日の安全運行を見守っていてほしい。

世田谷通り 上町 停留所

自称することでもないが、都会っ子である。生家は世田谷ボロ市の賑わいで有名な上町にあり、東急世田谷線上町駅、世田谷駅、東急田園都市線桜新町駅はいずれも至近。電車なら20分もあれば渋谷へ着く。

一方、バスも身近で使いやすかった。当社の弦巻営業所にも近く、東急バスが走る姿を近隣でよく見かける。上町バス停から渋21系統が始発で運行しており、終点の渋谷駅まで30分ほどである。世田谷通りを東急バスが行き交う光景を昔からよく見てきた。都心部への交通の便が良く、身支度してから小一時間のうちには渋谷、新宿に居る。そんな地域だ。

少し逸れるが、大都会が目と鼻の先という感覚であるためか、そこから離れた地域、あるいは普段使う必要のない路線には極端に無縁だった。私は大学生になるまで意識して電車で多摩川を越えた記憶がない。田園都市線の下りは利用しないため神奈川県に入ることがなかった。東急東横線や東急大井町線などにも疎く、「等々力渓谷」という地名の響きから、同じ世田谷区なのにすごく遠い場所のように感じていた。生まれながらの都会っ子は、裏を返すと生活圏が物凄く狭かったりするものだ。(もとい、それは人と家庭による)

渋谷駅と弦巻営業所を結ぶバス。自宅近隣の道路を通り過ぎていく東急バスを日常的に見ていた。

話を戻す。生まれ育った場所は大都会に近接していたが、渋谷や新宿へ頻繁に通い詰めていたわけではない。中学生くらいまでは、たまに家族で渋谷へ出かける程度。ただ、友だち同士で東急文化会館(現在渋谷ヒカリエが建つ場所にあった複合商業施設)内の劇場へ映画を観に行くのが楽しみだった。1991年に日本公開され大ヒットした「ホーム・アローン」を渋谷で最初に観た記憶が残っているので、小学6年生だったはずだ。他には小学校の夏休みに当時青山通り沿いにあった、こどもの城(児童向けの文化活動施設)で実施されていた宿泊体験プログラムに3年続けて参加したのはよく覚えている。

渋谷まで行くときは、電車ではなく上町の停留所からバスを利用することが多かった。所要時間では電車に分があるのだが、数分でも早く到着したい状況でなければ上町始発の渋21系統に座って、のんびり街の景色を眺めながら向かうのが好きだったのだ。子どもの頃、バスの運転士さんが気さくに話してくれるのも嬉しかった。電車よりも親近感のある乗り物で、その印象は大学生になっても変わらなかった。前述のように私は、自分と関係する場所、乗り物、路線と、それ以外との間に境界線を引いていた気がする。無論バスは欠かせぬ存在の乗り物で、生活圏内の移動と東急バスは自然に結び付いていた。そのことに改めて強く気づかされたのは、大学4年の就職活動の時である。

上町から渋谷は世田谷線(写真左)に乗り三軒茶屋で田園都市線へ乗り換える電車ルートと上町バス停(写真右)から渋谷駅行きの始発、渋21系統に乗る方法がある。

なぜ東急バスを選んだのか。早くから当社を志望していたわけではない。バスに乗るのは好きだが、バス会社を就職先として考えたことがなかった。当社以外のバス会社は受けていない。私は割に早い段階で、ある金融機関の内定が獲れ、少しほっとしていた。インターネットの普及が始まった頃で某巨大掲示板の隆盛期。内定した会社の評判をおずおずと検索したのを覚えている。今もあまり変わっていないだろうが、ネット掲示板に良い噂など書かれているはずがないのは知りつつも、本当にこの会社でいいのかと不安に思ったりした。

金融業が自分のやりたい仕事なのか今ひとつはっきりせぬまま、就活を続けていたある日、渋谷で開催される会社説明会に参加するため、上町から渋21系統に乗車した。バスの座席に着き、ぼんやりと車内に目をやった時、はたと思った。「んっ!?東急バス(では働けないのか)?」。調べると新卒採用があると知り、すぐに応募。面接では地域にとってのバスの大切さを話したと思う。私を採用してくださった当時の人事担当の先輩には今も感謝している。

気づきも一つの出会いだと思う。愛着のあるもの、大切なものは身近なところにあり、もう会っていることもある。あの時、あの瞬間、心の中にあった「わたしと東急バス」の関係に気づけたことが幸運だった。

渋谷マークシティ(旧渋谷バス乗り場があった場所)

およそ50年前の話である。渋谷から京王井の頭線で5分ほどの池ノ上駅の近くで生まれ育った。私は電車の車掌になるのを夢見る子どもだった。母親に連れられて東急東横店の買い物によく行ったが、母が地下で食料品を買っている間、玩具売り場の電車模型やプラモデルに夢中になっていた記憶がある。幼い頃から買い物や習い事は大方、渋谷。移動の足はいつも電車であった。一方バスは縁遠い乗り物だった。池ノ上付近には大通りがなく近所をバスが通る姿を見たことがない。淡島通りを走る渋谷-若林折返所のバスはよく見かけたが乗ったことはなかった。おそらく家からそう遠くない場所に東急バスと都営バスが共同運行していた渋谷-幡ヶ谷折返所の停留所があったはずだが、我が家からは駅の方が近く、バス停に向かう習慣がなかったのだと思う。幼い私もバスにはほとんど関心がなかった。専ら電車っ子だったこともあるが、車酔いする子どもでバスに乗って行く遠足も嫌だったくらいだ。〈よく今バスの乗務員をやっているものだと思う〉。そんな幼い日の私が唯一バスに強い興味を抱いた思い出がある。

昭和50年頃、私は5~6歳。いつものように母と渋谷に来たある冬の日のことだ。覚えておいでの方も多いと思うが、旧玉電乗り場跡にバス乗り場があった。道玄坂上から現在の渋谷マークシティアベニューに沿った緩やかな下り坂で銀座線ガードと井の頭線ホームの隣に並ぶように位置していた。母と私は井の頭線のホームを降り東急東横店へ向かう途中、右側の視界に入ったバス乗り場の光景に一瞬足が止まった。中央奥のターンテーブルの上でぐるりと回るバスの様相に目を惹かれてしまったのだ。当時ターンテーブル自体珍しかったが、大きなバスが悠然と転回する姿に強いインパクトを受けた。その日は偶然目に留まっただけだが、一部始終を見たいと思った。その後、母親の買い物に着いて行く時は必ず覗いた。細長い構造の両側にバスが停まり、右手に前部、左手に後部が見えていた。一番手前にターンテーブルがあり、運転士がボタンを押すとバスがゆっくりと旋回。その様子にワクワクしたものだ。ターンテーブルを操る運転士がやけに颯爽と見えた。寒い冬に多くの乗客が背中を丸めてターンテーブルの周りを囲む光景が脳裏に焼き付いている。もっと間近で見たいが買い物を急ぐ母に「中に入って見たい」とは言えず、横目で眺めるしかなかった。母にねだっておけばよかったのだろうが躊躇した理由がある。怖かったのだ。その場の雰囲気が。いや、バスの存在そのものに対して。

1970年ごろ渋谷バス乗り場に設置されたターンテーブル

バス乗り場は埃っぽく、薄暗く、殺風景。子どもがおいそれと立ち入ってはいけない所に思えた。〈入ったら怒られそう。迷子になりそう〉。当時は今の渋谷マークシティの華やかで洗練された佇まいから想像できない重々しい雰囲気の場所。私には近寄りがたい、おどろおどろしさを感じた。大井町駅行きのバスが入ってくるのは覚えていて「よくわからない遠い街に行くやつだ」と訝かしい感情も抱いた。行き先の異なるバスがターンテーブルに現れるのを見て方向幕にも目を凝らした。大井町行きの東急バスは現在も活躍する渋41系統であろう。私が今所属する営業所のバスも当時出入りしていたに違いない。電車の路線には詳しかったが道路の知識はまるで無く、バスの系統など全然知らなかった。それゆえに余計バスは乗るのが恐ろしい乗り物。グレー(シルバー)の車体に赤いラインのバスを遠目に眺めながらそう感じていた。

渋41系統のバスが転回する様子。1990年代までターンテーブルは使用されていた。

これが遠い日の私と東急バスの追憶。渋谷が出会いの場である。幼い頃から渋谷は馴染みの街だが、愛着があったかと言えば長い間そうではなかった。雑多で混沌とした随分と汚い街。その印象が思い出に影を落としていたかもしれない。渋谷はかつての姿から変貌を遂げたと思う。渋谷ヒカリエ、渋谷マークシティ、渋谷スクランブルスクエア・・・次々に新しいランドマークが誕生し道路も整備され見違えるほど景色が変わった。バスターミナルも機能的だ。私は50歳にして当社の乗務員となり、渋谷駅に入る路線バスを走らせている。運転席から街の様子を見渡すと充実感が漲り、身が引き締まる。長い時を隔てた東急バスとの再びのめぐり逢いは人生の転機に訪れた。

  • 水彩画:gogosuisai(ペンネーム)
    居を構える東急線沿線(目黒区)の某所を活動拠点に東京、神奈川の郷愁を誘う風景を透明水彩で描くスケッチ画家。透明水彩絵の具の混色表現による繊細で透明感のある描写が特徴。東急バス沿線の街を描いた作品も多数発表している。